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2005年03月 アーカイブ

2005年03月06日

モロッコ・イベリア(1)

イスラム文化圏に行こうと思った。
中国の新疆での体験からイスラム文化に興味を持ったというのもあるけれど、何よりイスラムというのは日本と一番遠い文化なんじゃないか、と常々思っていて、それを自分の目で見たくなったのだ。
モロッコを選んだのは@外務省から危険情報が出ていない、Aヨーロッパが目と鼻の先、というのが主な理由。中東は何処も危なそうだったし、一度くらいはヨーロッパも見ておこうかな、と。それともう一つ大きな要因としては、ヨーロッパ行の航空券のほうが全然安いというのもある(モロッコ直行は意外と高い)。

ということで、石橋を叩くような情報収集を始めた。まずは地球の歩き方とロンリー・プラネットを買い熟読する。ネットでモロッコ関係の情報を片っ端から探す。航空券の値段を調べる。日系・欧州系問わず、9月前半出発の便はどれも15万前後。う〜ん、高いな。
しかし、よく調べてみると一つだけべらぼうに安い航空会社があった。アエロフロート・ロシア航空。文字通りロシアの航空会社だ。値段はなんと97500円。他より3割以上安い。これは何か罠があるんじゃないかと思ったが、罠があったとしても安さには勝てん。これに決めた。
キャンセル待ちになったが、数日後無事手配できた。しかし、予約を取って行くことが決まった途端、とても不安になってきた。安全のためトラブル事例などを調べまくったのがいけなかったのか、かなり悪いイメージばかり抱くようになってしまったのだ。出発日まで何度も後悔し、何度もキャンセルしようかと思った。でもまぁ死ぬわけじゃないし、もしモロッコが合わなかったらずっとヨーロッパ側に居れば良いじゃないか。そう思うことで何とか自分を納得させ、出発日を迎えた。

朝5時半起床。7時20分発。10時に成田空港でチェックイン。
まだ出発まで2時間あるので店をぶらぶら回るが、特にすることも無い。もう日本は飽きた、出国しよう。しかし出国してもすることは無く(当たり前だ)、この先どうなるのかなとぼんやり考えて時間をやり過ごした。

12時ちょうどに出発。ロシアの航空会社だけあって、機内放送はロシア語。全然分からない。この次の放送もロシア語。おいおい、ロシア人以外は無視か?と思ったら、この2回目の放送は良く聞いてみると英語だった。ものすごいロシア訛りで全然英語に聞こえなかった。
その後すぐに飲み物が配られた。勿論ビール。となりのおっさん曰く、アメリカはビールを頼むと金を取られるという(本当か?)。そしてその後機内食。ビーフかチキンと聞かれ、あっさりしてそうなチキンを選択。しかしこれが油ぎっしりで酷いものだった。まぁそれ以外は美味しかったが(機内食「だけは」良い、というのがアエロフロートの評判らしい)。
とにかく暇だった。何しろモスクワまで10時間以上もかかる。時差が5時間あり(サマータイムなので)、17時半にモスクワ・シェレメチボ空港に到着。

このシェレメチボ空港、とにかくボロい。さらに薄暗い。荷物検査に使いそうな機械があったが、動いていないらしい。さすが世界に冠たる大ロシア帝国の玄関口は一味違うな。
乗り換えする客は8人しか居なかった。さらにリスボンに行くのは俺だけ。席は通路側を選択し、あとは良く分からぬまま手続きを終えた。しかしドアから出ようとするとここからは出るな、と言われた。何故? 仕方ないので他の出口を探すが、何も無い。困って人に聞いてみると、さっきの出口から出ろと言われた。さすが大ロシア帝国。
出発まではまだ1時間以上ある。暇だが、米ドルを持っていないので何も買えない(買う気になるものも無いが)。歩き回るほど広くも無いため、持ってきた小説を読むことにした。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」。何度読んでも飽きない本を持っていると、旅に出る時に役立つ。日本人は1〜2割ほどしか居らず、ほとんどが東欧系でみなKGBに見える(半分嘘)。もう完全にストレンジャーだ。やっぱロシアは怖い。

2005年03月07日

モロッコ・イベリア(2)

リスボン行きの飛行機は滅茶苦茶ボロい。飛べるのか? また不安。日本人の姿はもう無い。通路側の席を選択したはずなのに、3人席の真ん中。いかついおばちゃん2人に囲まれてしまった。糞ッ。例によってロシア語の放送が2回ずつある(もはや英語では無い)。この日3度目の機内食も不味く、大ロシア帝国ここにあり。
そして現地時間21時10分にリスボン着。無事着陸すると、何故か拍手喝采。まぁこのオンボロ飛行機のことを考えると拍手もしたくなるわな。さすが大ロシア帝(略

シャトルバスに乗って入国審査。ひとりひとりの手続きにかなり時間がかかり、結局40分くらい待たされた。しかし俺の時は一瞬で完了。日本人の信用というのは凄いな、と改めて実感(舐められている気もするが)。しかしここでもニポンジン俺だけ。これはこれで面白いが、やっぱり不安だ。
ロビーに出て、さてどうしようかと考える。実は初日のホテルすら予約してこなかったのだ。日本から予約できるホテルはどこも高いから、まぁ現地で探せば良いやくらいに考えていたのだ(出発してからかなり後悔した)。とりあえず観光案内所に突撃。ホテルを探している、と言うと安いのと高いのどっちが良い?と聞かれ、「安いの」と即答。すると35ユーロのホテルが空いているとのこと。意外と高いが、もう泊まれるのなら何処だって良いや。てか案外簡単に見つかったなぁ。

空港を出てバス停に。晩年のジョン・レノンに酷似した男が居て、地図を見せてここのバス停で良いか聞いてみる。合っているようだ。数分後バスが来たが、料金1ユーロを払うのにドタバタ。
夜のリスボンの景色は絵に描いたようなヨーロッパの町並みだった。しかし、眺めているとこれが現実なのか良く分からなくなってきた。とても疲れていたし、不安だらけでこれは夢じゃないかと思ってしまう。そしてふと気が付いたが、バス停に名前が書いてないので今どこを走ってるのか全く分からない。地図を見てもさっぱりだ。すると、さっきのジョン・レノンが降りろと言うので慌ててバスから降りようとしたら、ドアにバックパックが挟まってしまった。だんだん自分が情けなくなってきた。日本帰りてぇ。
1つバス停を過ぎてしまったからこっちの道を歩いていきなさい、とジョン・レノン。お礼を言って別れ、夜11時の街を歩く。正直言って怖い。ろくに言葉も通じぬ国でただ1人。他に日本人は居ない。しかし地図を見ながら何とかホテルにたどり着いた(ありがとうジョン・レノン)。

何せ英語もろくに喋れないので、部屋に入るまでも色々と大変だった。何とか朝食の時間を聞き出し、よく止まる変なエレベータで部屋へ。ようやく落ち着ける場所に来れた。とにかく疲れたが、考えてみれば1日が32時間あったのだから無理も無い。
不安だった初日を何とか乗り切った。しかし明日も何とかなるだろう、とプラス思考をするにはあまりにも孤独で疲れきっていた。

2005年03月12日

チュニジア・フランス・イタリア@

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2005年2月28日。21;55成田発。JALでチケットを買ったが、コードシェアで機体はエールフランスだった。空港には4時間くらい前に着いた。卒論の締切日を出発日に選んだのだが、意外と早く卒論を出せたので空港にも早く着いてしまった。

今回、チュニジア・フランス・イタリアを選んだのは、@JAL系で20000マイルで行ける、Aアフリカ大陸である、B外務省から危険情報が出されていない、Cナポリで夜景を見たい、から。行きたいところはいっぱいあるがとりあえずチュニジアとナポリに焦点を合わせた。フランスはおまけだった。
おれの席は44G。しかし、乗ったときにすでに座られていた。相手はおれと同じくらいの歳のカップル。ここで間違いを指摘すると彼氏さんに悪い気もしたが、まぁ仕方ない。下から申し訳なさそうに言ってどいてもらった。
エールフランスは国営らしい。ってことでサービスが悪いかと思ったらふつうだった。でも、エコノミークラスには免税品の販売に来なかったりで、人によっては評判悪いね。
14時間5分の鬼のように長いフライトを終え、4:35パリ・シャルルドゴール空港に着いた。実際に機内にいたのは15時間ほどであろうか。ありゃマジで拷問だよ。
8:30のチュニス行きまで約4時間。早朝の空港は何もなかった。適当にぼーっとしたり、ノートパソコンでDVD見たりして過ごした。ノートは持って行くかかなり迷ったけど、重いだけあってやっぱり役に立った。7時くらいになると店も開き始めて、ぷらぷら免税品を見て歩いた。しかし、フランスの物価は高い。コーラ1缶が約400円。キーホルダー1個1400円。ひどすぎる。腹も減って何か食べたかったが、あまりの高さに機内食を当てにすることにした。
チュニス行きはなぜか遅れた。そして、搭乗口のところで地球を読んでいると、日本人の女が話しかけてきた。彼女はおれと同じ歳で大阪の大学を卒業してこの春に就職らしい。んでチュニジアに一人で卒業旅行。彼女の旅歴はなかなかで、おれなんかより全然いろんな所に行っていた。彼女はかわいいし背も高いし、かなりいい女なんだけど、左手の薬指のリングを見た瞬間、やる気は失せた。飛行機に乗るまでの1時間ほど彼女と喋ったが、チュニスに着いてからは全く別行動にした。他人の女に一人旅を邪魔されたくはないからね。それに彼女のほうが旅慣れてるし。でも、今考えるとせめて空港から市内までは一緒に行ったほうが良かったかなと思う。
チュニスは大雨だった。空港でタクシーを拾って、「ホテルオムラン」まで行ってもらうよう告げた。しかし、地図も見せたが、運転手はわからないらしく、「ホテルオオムラ」に連れてかれた。初めて来た場所でいきなり地図上に存在しない場所に放り出された。まったく使えないドライバーだった。しかたなくホテルオオムラのフロントでホテルオムランの場所を教えてもらった。運良く、2ブロック先だということがわかった。そして、雨の中を傘もさせず重いバッグを持ってどうにかホテルオムランに着いた。フロントの人はおれの濡れた姿を見て笑ってた。それもこれもあの馬鹿ドライバーのせいだ。
1泊目のホテルはネットで予約しといた。1泊40ディナール。3500円ほどか。部屋に入っても、外が雨じゃ何もする気は起きない。まさか雨が降るとは思っていなかった。このまま部屋に引きこもっていることも考えたが、それじゃ日本と変わらないから、外に出てみることにした。
折りたたみの傘が折れそうになるくらいの強風と雨。初日にしては幸先が悪い。まず鉄道駅に行って、明日のガベス行きの列車の時間を調べた。それからハビブブルギバ通りを行ったり来たりして、メディナへ行った。メディナはさぞ楽しいんだろうなと思っていたが、雨と寒さで5分もいずに出てきた。中央市場に行って野菜やら何やら売られているのを見て、部屋に戻った。なんせ寒かった。
そしてこの時期、というか卒論発表の後くらいからずっと胃の痛みと吐き気に悩まされていた。部屋に戻ってからこの症状が出てきて、この日は夕食を食べずに水だけ飲んで寝た。

2005年03月15日

チュニジア・フランス・イタリアA〜ドゥーズ

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朝4:30に起きて、6:00発の列車に乗った。今日はサハラ砂漠の入り口の町ドゥーズまで行く予定。列車に6時間乗って、乗り合いタクシーの「ルアージュ」に乗り換えドゥーズを目指す。
チュニスからガベスまで2等席で13.85ディナール。乗り心地は、日本の普通列車を無理やり速くしたかんじ。やたら揺れた。途中、検札やワゴン販売が何回か来た。コーラを買ってみたら2ディナールた。約170円。やっぱ電車の中はどこの国でも高いね。
「世界の車窓から」って雰囲気で景色を眺めたかったが、やたらゴミが目に付いた。ゴミを眺めながらなんとか6時間やり過ごした。
ガベスに着いてから一目散にルアージュステーションを目指した。ガベスの町自体特に見るものはない。重いバッグを引きずり歩くこと20分、ルアージュステーションに着けた。道がこっちでいいのかかなり不安だったが、勘を頼りにどうにか着けた。おっさんにドゥーズ行きはないか尋ねると、ケビリで乗り換えろと言われた。地球には直行便があると書いてあったのだが、ないらしい。ってことでケビリ行きに乗った。待つこと5分で出発。このルアージュは1台に乗れる人数が集まったら出発する仕組み。ルアージュは飛ばすとは聞いていたが、ほんとにすごい。恐らく100km/hは下らない。抜かすことはあっても抜かれることはなかった。そして1時間半ほどでケビリ到着。すぐさまドゥーズ行きを探した。こちらも待つこと10分ほどで出発。おれ以外全員イスラム女性だった。30分でドゥーズ着。3時前には着いた。
降りてすぐに道を尋ねると、ツアーに行かないかと声をかけてくるやつがいた。全く乗る気はなかったが、話を聞きながら街の中心まで一緒に歩いた。おれはドゥーズボヤージュという旅行会社でホテルを予約してもらおうと思い行ったのだが閉まっていた。そうしてる間にもう一人、参戦してきた。そいつの仲間らしいが、ムラジグボヤージュの人だと言う。まぁ地球にも書いてある旅行会社だし信用して行ってみた。砂漠の中のテントで寝る1泊のツアーは90ディナールだと言う。一度行ってみたいのだが、胃痛に加えて頭痛までしてきて、なおかつ寒かったからやめた。じゃあラクダに乗って砂漠でサンセットを見るのはどうか、と言ってきた。それならいいだろうと思い、のった。60ディナール払ったがぼられたらしい。高いとは感じていたが、後から聞いたところによると1泊のツアーで25ディナールが相場らしい。
そのガイドらしき人の紹介によりこの日はオテル・エル・メディナに泊まった。そして部屋に荷物を置いてからそのツアーに出かけた。タクシーでちょいと走り、砂漠の端っこに着いた。どうやらここは、団体ツアー客なんかがラクダに乗って遊ぶ場所のようだ。連れてこられた所にがっかりもしたがもうどうでもよかった。言われるがままラクダに乗って砂漠を歩いた。
サハラ砂漠に来たというのに感動してる余裕がなかった。目は開けられないほどの強風と寒さですぐに帰りたくなった。本当は3時間乗る予定だったが、1時間半で切り上げた。それに天気が悪くてどう考えてもサンセットなんか見えるわけがなかった。そして最後には雨まで降ってきた。まぁ砂漠で雨に当たれるなんてある意味すごいのかもしれぬが…。
そんなこんなで60ディナールを無駄にしてホテルに戻った。しかし寒かった。部屋に暖房がないのが許せなかった。
地球によるとこの街にはネット屋があるってことなので行ってみた。実はこの時点で卒業できるかどうかわからなかったのだ。おれが出発した次の日からその照会ができるようになっていた。恐る恐る見てみると、お見事!卒業決定。チュニジアに来て一番うれしかった瞬間だ。
しかし、そんなうれしさとは裏腹に体調は悪かった。夕食は何も食べずに寝た。この日に食べたのはカロリーメイト2本とパン1個、コーラ1本のみ。

2005年03月24日

チュニジア・フランス・イタリアB〜ドゥーズ→トズール

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朝起きてホテルの朝食を食べて外に出た。今日は木曜日。ここドゥーズではけっこうでかい木曜市が開かれるってことで見に行った。
まだ朝8時にも関わらずけっこうな人で、食料品やら生活雑貨やら売られてた。中にはコンポを売る店もあった。一通り見て、ホテルに戻り屋上に上がってみた。この日はチュニジアに来て初めて晴れた。こうして上から家々を見てみると改めて異国に来たという感じがする。
ホテルをチェックアウトし、ルアージュに乗ってケビリへ行った。そして乗り換え、トズールへ向かった。この車内で隣に座ったのはベルギー人のおっちゃんだった。そのおっちゃんは昨日、砂漠でおれのことを見たと言ってた。まぁ確かにここじゃ日本人は目立つだろう。そのおっちゃんはもうリタイアしていて、たまにリフレッシュしにチュニジアに来てるそうだ。他にもチュニジアのこととか他の国のいいところとか教えてくれた。途中、ショット・エル・ジェリドという塩湖を通るのを楽しみにしていたが全くたいしたことなかった。確かに塩はあったが、湖ではなく砂漠だった。ボリビアのウユニ塩湖みたいなのを期待していたが、はずれた。
1時間ちょっとでトズールに着いた。おれはおっちゃんと別れて旅行会社巡りを始めた。タメルザ渓谷に行くツアーの相場を聞いて、その値段によって今日泊まるホテルを考えようと思っていた。このトズールの近くにタメルザやシェビカというのがあって「イングリッシュペイシェント」のロケなんかでも使われたらしい。しかし、3軒周ってわかったのが1人では90〜100ディナールするということだった。そんなに払ってなれないし、そこまでして見たくもなかった。ってことで、もうトズールですることはなくなった。しかたなく1泊10ディナールのホテル・アイシャに泊まることにした。ぶらぶら街を歩いて、レストランに入った。客はおれ一人。チュニジアに来てチュニジアらしいものを食べてなかったから、クスクスを頼んでみた。小麦粉をどうにかした食べ物なのだが形容しがたい。まぁとりあえず口に合わなかった。半分も食べなかったので、店の主人は不機嫌そうにしてたが仕方ない。食えないものは食えない。
トズールは観光地なだけあって土産物屋も多い。店の前を通るたびに"Hello!コンニチワ""Japon?"とか言われる。まぁお決まりではあるがうざい。
ホテルに戻って明日何をするか作戦を練った。最初はチュニスに帰ってカルタゴとかゆっくり行ってみようと思っていた。でも地図を眺めてる内に途中のスースやケロアンなんかに寄る案が浮上した。チュニジア中部の街を行くことは全く頭になかったので地球も読んでいなかった。読み進めていくうちになかなか面白そうだってことになり、スファックス経由でエルジェムとスースに行き、スースで泊まることにした。
そんなこと考えてる間に日も暮れた。結果的にトズールには何しに来たのかわからないが、まぁタメルザのツアーがだめになったおかげで明日スースに行けるのだから良しとしよう。

2005年03月27日

チュニジア・フランス・イタリアC〜ジェム・スース

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朝5:30起床。昨日ルアージュステーションに7時に来るように言われていた。スファックスへの直行便はなく、ガフサで乗り換えろとも言われていた。約束通り7時前には着いたのだが、客が集まってなくてなかなか出発する気配がない。昨日までは10分も待てば出発してたのに。まぁ今日が金曜ってことも関係あるのかもしれない。そして1時間以上待たされてようやく出発した。
1時間ちょっとでガフサ到着。すぐさまスファックス行きに乗った。おれは5人目の客だった。どうやら7人集まらないと出発しないらしい。6人目、7人目がなかなか来ず、結局また1時間待たされた。しかもおれより先に待っていた4人がドライバーと揉めてた。あまりに待たされたから金は全部払わないとでも言っているのだろうか。ジェスチャーの様子だとおれも絡んでいたようだ。
結果的には客側が折れたらしく出発。ここまで計2時間待たされた。こんなことならルアージュじゃなくてトズールからバスに乗っておけばよかったと思った。
ガフサからスファックスは300kmくらいあるため、途中で休憩した。同乗者の一人が親切に休憩であることを教えてくれた。おれはただ車の周りをふらついて、全く緑のない荒涼した大地を眺めていた。こういった日本にはまるでない風景を見るために旅をしていると言っても過言ではない。そしてさっきおれに教えてくれた人が車に戻ってくると、「飲みなよ」ってしぐさでおれにジュースを渡してきた。金額にしたら30円にも満たないだろうが、そんな親切心が身にしみてうれしかった。チュニジア人は日本人が好きなのかどうか知らないが、道を歩いていてもしょっちゅう声をかけられた。まぁたしかにチュニジアで東洋人はほんとまれな存在だからってのもあるだろう。でもトルコなんかと違うのは、最後に「Welcome to Tunisia!」って何度も言われた。よくわからんが、喜んでもらえたのならありがたい。
3時間ほどでスファックス到着。スファックスはチュニジア第二の都市。ルアージュステーションでは例のごとく待たされた。40分待たされて出発。おれの隣に座っていた女の子2人が話しかけてきた。
チュニジアでは最初はたいていフランス語で話しかけられる。英語しかだめだと言うと英語で話し出した。最終的にお互いの英語の違いの話になった。おれも彼女たちの話す英語は速いし発音も違うしで何度も聞かないとわからなかった。彼女たちもおれのはアクセントが異なるとかでわかってなかった。どちらに非があるかと言えば間違いなくおれだが。
1時間ちょいでエルジェム着。ここは世界で3本の指に入るほどの大きな円形闘技場のある町。ローマのなんかよりずっと保存状態がいいらしく世界遺産にもなってるそうだ。まぁ長い時間かけてきただけあってそれなりに見ごたえはあった。実際チュニジアってそんなに見るものがない。サハラ砂漠を除いては何をとっても小粒ばかりだが、そんなチュニジアの中でこの円形闘技場はよく頑張ったと思う。あのでかさと状態の良さは圧巻だった。
再びルアージュステーションに戻ってきた。スース行きの車を探すとおれは一人目の客だった。こりゃ待たされるなと思ったら案の定30分以上待たされた。その車で日本人と一緒になった。おれと同じくらいの歳の男。もう2週間チュニジアにいるそうだ。クサール・ギレンの砂漠で激寒の中、1泊耐え抜いた話など聞いた。でも言っちゃ悪いがあまり好きにはなれないタイプの人間だった。
スースに着いてタクシーに乗りビーチエリアにあるホテル「エル・ハナ」に行った。ホテルに着いたのは18時頃。エル・ハナは高級ホテルらしいが1泊38ディナールで泊まれた。プールもついてて部屋からビーチも見えるわりにかなりお買い得だった。しかもフロントのおっちゃんがやたら陽気で、無駄に片言の日本語喋ってた。
外に出てビーチ沿いを歩いてみた。天気はよくはなかったがなんせ風が気持ちよかった。夏は一大リゾート地になるらしく外国人の数も多かった。そのせいか街にはやたらピザ屋が目立った。でも、街全体が楽しそうな雰囲気でこっちも楽しくなってきた。もっと早く着ければよかったのに。
夕食をどこで食べるか散々悩んで、地球に迷わされながら道を行ったり来たりして本来行くはずではなかったちょっといい感じのチュニジア料理の店に来た。シーフードを食べたいと思って2品頼んだら、2つともサラダだった。確かにエビは入ってたけど…。そんなわけで高い金払ったわりに大して腹も膨れずホテルに戻った。

2005年03月28日

チュニジア・フランス・イタリアD〜チュニス・カルタゴ

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寝坊した。ちょうど部屋が東向きだったから水平線から上がる朝日を見ようと思っていたのに。でも外は雨混じりの曇りだから起きても見れなかったかな。急いでホテルの朝食を食べてチェックアウトした。重い荷物を引きずって駅まで20分ほど歩いた。
どうにか間に合いチュニスに帰る電車に乗った。チュニスまで2時間。もう2時間の移動なんて長くは感じなかった。
10時半過ぎに到着。1泊目と同じホテルにチェックインし、洗濯をしてからカルタゴへ向かった。地球を見る限り、大したことはなさそうだたけど、チュニジアで唯一と言ってもいいくらい名前を聞いたことのあったところだし、とりあえず行ってみた。実際、ほとんどの遺跡の保存状態が良くなく、まぁ期待通りだったけど、来たってことが大事。そう自分に言い聞かせて、シディ・ブ・サイドに行った。ここはチュニジアンブルーで有名なリゾート地。晴れていれば青が際立ってすごい綺麗らしいけど、あいにく曇りでさほどではなかった。
そんなかんじで当初の計画にあった見たい町は全て見た。チュニスに戻って土産物を探した。べつに自分のものではないから苦痛といえば苦痛だ。メディナで「ナカタ!ナカタ!」言われながら道を突き進み、だいたいの相場をつかんだ。グランドモスクまで来て、どっちに行ったらいいかわかんなくなっていると、近くの店の店員が「今日はグランドモスクは開いてないけど、素晴らしいテラスがあるから来いよ」と言ってきて言われるがままついていった。どうせ後で案内した代わりに何か買っていけと言われるのはわかっていたが。着いた先はどっかの店の屋上。確かにそこからはチュニス市街が一望でき、眺めは素晴らしかった。その店員ももう買ってもらった気になっているのか喜んでいた。帰ってそいつの店に行くとそこは香水屋だった。イスラムの匂いにはまるで興味がないからあっさり帰ってきた。当然、そいつは不機嫌そうにしていたが。
結局、何も買わずスーパーへ行った。とくに土産になりそうなのはなかったが、チュニジア産ビール(セルティア)は売っていた。イスラム国家だからであろう、アルコール類はスーパーの中ではなく、入り口の隣の小さな部屋で売られていた。その小さな部屋はイスラムの教えに背向いた男たちでいっぱい。しかもみんな悪いことでもしてるかのようにこそこそ買ってる気がした。袋も中が見えないような黒い袋になってるし。おれもみんなを真似てセルティアを3本買って帰った。
この日はチュニジア最後の夜。少しはいいもん食おうと思ってそれなりのレストランに行った。羊の肉のハンバーグを頼んだつもりが、出てきたのは肉ではなく玉子のかたまり。かなり萎えたがしかたなく全部食べた。結局、終わりまでこんなかんじだったかと恨みつつ、チュニジアの旅は終わった。

2005年03月30日

チュニジア・フランス・イタリアE〜ニース

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朝8:35のチュニス発ニース行きに乗った。ホテルから空港までのタクシーでぼられた。行きは3ディナールちょっとだったのに、タクシーの馬鹿イスラム人ドライバーはおれが日本人だとわかるとメーターをはずし、7ディナールだと吹っかけてきた。時間があれば喧嘩でもしたかったがそんな時間はない。早朝で次いつタクシーつかまるかわかんないから7ディナールにのってあげた。まぁ金も余ってたから痛くも何ともなかった。
空港ではつり銭詐欺にあった。チュニジアで何度も飲んだフレッシュオレンジジュースを頼んだら、5ディナールほど少なく渡された。ほんとに金が余って使い道に困ってたから何も言わなかったが、むかつく。これだからアラブ商人は。
10;10ニース着。飛行機の窓から見えた景色も綺麗だったが、空港から市内へ向かうバスからの眺めも綺麗だった。日曜日ってこともあってか、海岸沿いは幸せそうに散歩する人たちでいっぱいだった。
この日は「ホテルノルマンディー」に泊まった。フロントの姉ちゃんがとてもかんじよかった。おまけに10ユーロ近くまけてくれた。2つ星にしては部屋もまぁまぁ。というより部屋を見て、先進国に来たと実感させられた。
ニース駅からモナコを目指す。普通列車でも25分ほど。往復で6.03ユーロ。普通列車と言っても日本の特急列車並にいい車両だ。2階建てだし。車窓から見える風景はこれまた素晴らしかった。車内でも「ビューティフル!」って飛び交っていた。
モナコ・モンテカルロ駅着。出口がわからずいきなり迷子になった。その後どうにか出口を見つけ、海岸線を歩く。F1のモナコグランプリで有名なトンネルを歩いた。できれば車で通ってみたいものだ。
モナコ・グランドカジノ着。周りは超高級車だらけだった。マカオ以来、カジノの魅力にとりつかれていたが金がないからやめた。そしてここに来て雨。モナコで雨なんて信じられない。速攻で駅に行って雨がやむのを待った。
なかなかやみそうにないから帰ることにした。モナコ滞在時間は2時間ほど。まぁいいか。来たってことが大事。
ニースに戻って街を歩いてみた。ニースの大通りは工事中で歩道も歩きづらかった。さすがにチュニジアと違って日本人にすれ違う数が多い。
海岸線に出た。こんな街のそばなのに海水がきれいだ。南国のリゾート地で見る海の色に近い。
ニースでは日本人より中国人のほうが多かった。ほんとどこにでも中国人は出てくる。そして中華料理屋も多かった。久しぶりに、と言っても1週間ぶりくらいだが米を食べたくなって中華屋に入った。炒飯と酢豚と春巻。米なんか全然違うけど関係なくうまい。なつかしい味に思わずにやけてしまった。

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