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2005年05月 アーカイブ

2005年05月01日

モロッコ・イベリア(7)

夜明け前、凄まじい腹痛に襲われて目が覚めた。慌ててトイレットペーパーを持ってトイレに駆け込む。3度往復したが腹痛は治らず。頭もぼーっとするので、熱もあるかもしれない。薬を飲んで横になり、寝付けないので小説を読んだりして過ごす。
昼12時にシングルの部屋へ移動したが、入り口側を太陽が照らしていて、とてもとても暑い。3時くらいまで頑張って寝たが、腹も減ってきたので外に出ることにした。今日はまだ何も食べていないのだ。

街を歩いていると、客引きに声をかけられた。体調は最悪で店を探すのも面倒だったので、付いていくことにした。タジンと水とパンを食べると少しだけ体調は良くなった。食べながらその客引きのモロッコ人と色々な話をしたが、精神的にかなり参っていたので、これで大分救われた。日本から持ってきたたくあんを上げると、とても喜んでくれた(意外と口に合うようだ)。あとで手紙を送ってくれるというので、アドレスの交換もした。ラシッドという名前らしい。
これから砂漠に行くという話をすると、ラシッドは「ジェラバ(服)とサングラスと毛布を持っていくといい。もし工場が空いていれば、そこで半額くらいで買えるよ」と言う。「いくら?」「交渉しだい。メディナでは値下げ出来る。でも、新市街ではfix priceだ。だから俺はメディナが好きだ。」食後案内してくれるというので、付いていくことにした。

迷路のようなメディナの細い道をラシッドと歩く。大きな通りだと遠回りになるらしい。こっちとしても、そのほうが楽しくて良い。ラシッドはメディナについてとても親切に説明してくれた。他にも家族のこと、飼っていた犬や猫のこと、大学で2年間芸術を学んでいたこと、などなど。
ここでふと気が付いた。ラシッドは自称ガイドだ。モロッコには政府に認められた公認ガイドのほかに、非合法な自称ガイドと呼ばれるものが存在する。当然あとでチップと呼ばれる報酬を支払うことになる(半日で150、1日で250DHが相場らしい)。まいったな〜と思ったが、ラシッドはなるべく分かりやすい英語で説明してくれるし、ジョークを言ったり、とにかくとても親切だった。これなら、別にチップを払っても別に悪くない、と思った。うん、悪くない。

運が良く・・・いや、当然のことながら、工場は開いていた。狭い階段を上がり、3階へ。少し待つと、ボブサップのような店主がやってきた。アラブ式の挨拶をし、工場(といっても機織りが1つあるだけ)の説明を受ける。そして別の部屋に通され、ミントティーを飲みながら雑談を少々したのち、絨毯の説明が始まった。いよいよ来たな、という感じだった。
ジュラバのほうは良いデザインのものが1つだけあった。絨毯はとりあえず1つ適当に選び、あとは全て要らないと言った。交渉開始。選んだ絨毯の上に、ボブサップと2人であぐらをかき向かい合う。ボブサップだけに威圧感はものすごい。
まず提示してきた値段は3900DHだった。日本円にして5万円以上だ。馬鹿言っちゃいけない。こっちの金は260DHくらいしか持ってないので、それをアピールしつつ値段を下げようという方針に決定。まず絨毯は別に要らないので諦め、単品で1900DHに。怒るかな、と思いつつも200DHを提示。ボブサップは顔色を変え色々言ってくるが、幸い早口で何を言っているか分からない。すかさずラシッドがサポートに入る。学生だからこれでも安くしてるとか、これは良い品だとか。あくまでも怒っている振りをしているだけのようで、まぁ許容範囲なのだろう。自分の持ち金を見せ必死(な振りで)アピール。そしてついに450DHまで下がった。
これ以上払ったらもう旅を続けられない、俺は貧乏なんだ、と連呼。合計5回くらい同じことを言った気がする。少しずつではあるが、何とか400DHまで来た。もういいか、と思ったがあくまでも強気に370DHを主張。これ以上は払わない、という態度を見せる。ボブサップはしばらく400DHを主張し続けたが、こっちの態度を見て仕方ない、といった感じで折れた。
ジェラバの相場は分からないので、これが良い買い物だったかは分からない。少なくとも、向こうには利益が出ている。モロッコ初心者の日本人がギリギリまで値下げできるほど甘い世界では無いだろう。それでも5分の1まで下がったことには満足した。なら良いじゃないか。結局、自分が満足できるかどうかだ。たかが100円やそこらに固執してどうする?

ホテルに一旦戻り、残りの金をラシッドに渡すと、チップをくれないかと言ってきた。やはり、と思いつつも、残りの金額120DHに30DHだけ足して渡した。半日の相場から考えても問題外に安い値段だが、ラシッドは喜んで受け取ってくれたので逆にこっちが申し訳なく感じてしまった。「もう一度マラケシュに来ることがあったら、さっきのレストランに来てくれ。俺はいつもあそこに居るよ」とラシッドは俺と肩を組んでそう言った。そしてアラブ式の挨拶とともに去っていった。工場から多少のマージンは受け取るだろうが、30DHのチップで納得するガイドなんてまず居ない(と思う)。何にせよ、ラシッドはとても良い奴だった。彼のお陰で旅の不安もかなり和らいだ。すでに買ったジュラバのことはどうでも良くなっていたが(笑)。

部屋に戻ってきたが、体調がまた悪くなっていることに気が付いた。さっきの良い気分は吹き飛び、またナーバスになってきた。旅の途中の病ほど精神に悪いものは無い。プラス思考するにはあまりにも消耗していた。少し腹が減ったが、下痢はまだひどいし外出する気力も残っていなかったので、もう寝ることにした。明日は移動する予定だが、こんな状態で大丈夫だろうか? ミナレットから聞こえるアザーンやジャマ・エル・フナ広場から聞こえる太鼓の音を聞きつつ、寝たり起きたりを繰り返した。

2005年05月05日

モロッコ・イベリア(8)

朝5時に起床、まだ外は真っ暗。星空を観ていて何か激しく感じるところがあったが、言葉にはうまく表せない。とても静かで、綺麗な空だったのは確かだ。
6時前に、フロントの中で寝ていた人を叩き起こして鍵を渡し、チェックアウト。何故、こんなに早い時間にチェックアウトしたのか、自分でも良く分からない。CTMのターミナルに向かって歩いているうちに明るくなってきた。例によって道に迷ったり、道を聞いたガキにチップをねだられたりしたが。
CTMのオフィスに着いたが、バスは無いという。1日1便で、まだ全然時間があるようだ。仕方なくメディナに戻り、民営バス乗り場を探す。早くも疲れていたので、チップ覚悟で話しかけてきた男に案内してもらうことにした。バスの料金は50DH。バスの中に水やネックレスの売り子が来たり、何かを演説する男が入ってきたり。モロッコ。それほどマイナーなルートでは無いのに、旅行客は誰も居なかった。みんなやはりCTMを使うのだろうか。

8時半にバスは出発。このバス、とにかくボロくて汚い。ターミナルに並んでいたバスの中で一番汚い。カーテンは小便臭いし、椅子は硬くて狭いし、荷物はバスの上にしか載らないし、何よりバスの中にさえハエがいるのだ! もうこのモロッコの地ではハエと同居することが義務付けられているとしか思えない。まぁ国営のCTMに比べると料金も安いし、選択肢も少ないのだから仕方ない。
隣の席には子供が座っていて、色々話をしてくるのだけど、当然ながら何を言っているのか分からない。でもチョコやら飴やらあげるととても嬉しそうにニコニコしていた。さっきの道を聞いたガキとは大違いだ。
街を抜けると景色は畑になり、すぐ山道になった。一応幹線道路なのだが道はとても狭く、また揺れも酷いので吐いている子供も結構居た。しかしアトラス山脈の景色は凄く、そのおかげで暇にはならなかった。

1時半くらいにワルザザート着。すぐに客引きに捕まる。何かをタダでいい、と言っているようだが良く分からない。面倒なので追い払おうとすると、「お前は分かってない、話を聞け」と言う。何でも、日本人のガールフレンドがいるらしい。そうですか。無視して自分でタクシーを拾うと、握手を求めて「気をつけて行けよ」というようなことを行って去っていった。良く分からない男だ。
タクシーでホテル・パルメラへ。アパートメント形式になっているホテルで、290DH。高いだけあって、中はそこそこ綺麗。もう少し綺麗だったら日本の三流ホテルくらい。まぁ、高いといっても3500円くらいなんだが・・・。

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少しだけ街を歩く。マラケシュまでのモロッコとは全然雰囲気が違う。アトラス山脈を越えたこの街は、辺境という言葉がぴったりくるようなところだ。こういう場所は嫌いじゃないのだが、風が強く眼にホコリが入る。ものすごい勢いで入る。ラシッドの言うとおり、サングラスを買っておくべきだった。
ガイドブックに載っている「スーパーマルシェ」という食料品店で買い物。ここでは珍しくビールが売っている。モロッコに来てから酒を全く飲んでないので、ハイネケンを2本買う。他には水、コーラ、飲むヨーグルト(?)と変なクッキー。部屋に戻ってハイネケンを飲んだが、当然のことながらぬるい。体調が悪いせいもあって、あまり美味くなかった。結局この日はすぐ横になって寝た。

2005年05月06日

タイA

ジョムティエンビーチ

朝9時頃起床。がんばってどこかを回るつもりもないので目覚ましもかけずに起きた。起きたまんまでホテルの朝食へ。バンコクに来ると日本人より白人の旅行者が目立った。ヨーロッパに比べると激マズの朝食を食べ、シャワーを浴びてチェックアウト。
今日はバンコクにほど近いビーチリゾート、パタヤーへ行く。パタヤーで2泊くらいのんびりするつもりだった。BTS(スカイトレイン)に乗り、東バスターミナルへ。最初、バスターミナルがわからずただの駐車場へ行ってしまった。タイのバスターミナルはこんなものかぁ、と思っていたが違った。
パタヤーまで90バーツ。安い。暑さのあまり買ったミネラルウォーター8バーツ。バスはエアコン効きすぎで長T着てても寒かった。そう、外務省によるとこの時期タイではコレラが流行りだしていると聞いて無駄に長袖着ていた。
2時間ちょいでパタヤー着。しかしここがどこだかさっぱりわからない。ソンテウの客引きにあってもとりあえず無視。うろうろしていると「HOTEL RESERVATION」の文字が見えた。そのカウンターに行ってみるとちゃんとホテル予約してくれた。パタヤー中心部のパタヤーセンターホテル。1泊1000バーツ。親切にもホテルまで送ってくれた。何となく来たのだが、なんとかなるもんだ。
ここのホテルもまぁちゃんとしてる。部屋からは少なからず海が見えた。これで1泊3000円なら安いだろう。しかし、タイ人の話す英語は全然わからない。誰が教えたのか。日本人よりひどい気がする。このホテルで「レプシー。レプシー」言われて何のことかと思ったら、「Deposit」のことだった。マジわかんない。
パタヤーの街も白人向け観光地なだけあって欧米系ファーストフード店も多い。そんなわけでマックへ。べつにタイに来たからと言ってタイ料理三昧になるつもりはさらさらなかった。いろんな国のマックを食べて思うが、ドリンクの大きさは日本が一番小さいのでは。まぁ大きすぎても飲みたくないが。そして一番まずいのは本場アメリカ。あれは食えなかった。
そしてリコンファームをしようと公衆電話へ。エアインディアはリコンファームが必要。最低だ。しかもなかなかつながらない。何度やっても駄目でこの日はあきらめた。
ソンテウに乗ってジョムティエンビーチに行ってみた。パタヤーは砂浜が短くて、騒々しい。ジョムティエンビーチなら静かで海も綺麗かなと思ったらそうでもなかった。
しかしパタヤーは白人が多い。そして白人中年男性がタイ人少女と手をつないで歩いてるのを幾度となく目撃した。国際的援助交際だ。そういうのしてるのは日本人だけかと思ったらそうでもないね。しかも白人はケチらしく、かなり安い金額でその女の子たちを買ってるらしい。最低だ。
1泊で申し込んでいたが他に当てもないのでもう1泊このホテルに泊まることにした。しかも明日の夜はここパタヤーでミュージックフェスティバルが開かれる。その雰囲気も味わいたかったので予定通り2泊することにした。
夜はタイスキのチェーン店で食べた。まぁまずくはないがとびきりおいしいわけでもない。ていうか、ああいう鍋は一人で食べるもんじゃないね。

2005年05月09日

モロッコ・イベリア(9)

昨日早く寝たので6時過ぎに起床。洗濯物はカラカラに乾いている(素晴らしい)。
8時過ぎまでゴロゴロして、朝食。例によってパンだけだが、ここのオレンジジュースがとてもとても美味しかった。こんな美味しいオレンジジュースは初めて飲んだ。冷たくて、新鮮で、濃縮還元じゃないやつ。最高だ。
フロントに行き、1日延泊したいと伝える。オレンジジュースの影響もあったかもしれぬ。
昼は体を休めようということで、ホテルでのんびり小説を読む。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」。とてもリズムの良い小説で、何度読んでも、何処から読んでも面白い。こういう本があると旅先でとても役に立つ。

夕方5時半くらいに外へ出て、観光案内所に向かう。CTM又は民営バスのマハミド行きのスケジュールを聞こうと思ったのだが、どういうわけか知らないらしい。おいおい、いったい何を案内してくれるんだここは? 仕方ないのでパンフレットだけ貰って去った。パンフレットは結構面白かったが(ただしフランス語)。CTMのオフィスに行って聞いてみると、どうやらマハミド行きのバスは無いらしい。手前のザゴラ行のみ。ザゴラでも良いかなと思ったが、折角なら最果てのマハミドまで行きたい。休養をとったおかげで少しやる気が戻ってきたのだ。
次は民営バスのターミナルに。ここはかなり遠いところにあり(中心部からあまりに外れているので地図に載ってない)、だいたい歩きで25分くらい。街を歩いているとジロジロ見られるが、無理も無い。他に日本人は見かけない上に、変な民族衣装とアーノルド・パーマの帽子、首にはタオルというこの格好が目立たぬはずが無い。例によって道が良く分からないが、適当に分かれ道を選んだら着いた。ラッキー。
まず近くの店でぬるいコーラを飲んで休憩してから、ターミナルへ。色々調査した結果、13時45分発のマハミド行があるようだ。良かった、ザゴラで1泊する必要は無さそうだ。1日1本、この便しか無いので結構混むらしく、明日は早めに行かなきゃな。

morocco5.jpg
外に出ると日没直前。夕焼けがとても綺麗だった。荒野と山脈に囲まれたこのワルザザートは、景色がとても良かった。こういう景色を見ていると、旅に出て良かったと心の底から思える。またやる気が少し戻ってきた。

帰り道、男に呼び止められた。日本語で手紙を書いてくれないかと言う。断る理由も特に無いので、骨董屋のような店に入り、男の英語を聞きながら手紙を書いてあげた。「こんにちはハヤコ。写真をありがとう。またモロッコに来てください。家族によろしく。ありがとう。」こんな感じの内容だった。声に出して読んであげると、一生懸命真似しようとしていたのがおかしかった。アブドゥルというありがちな名前のこの男はとても明るく、アメリカ人のように「HAHAHA」と笑う(偏見か)。手紙をとても大事そうにしまい、色々話をした。日本からリスボンまで16時間かかり、機内食が3度出たと言うとアブドゥルはとても驚いた。あまりの驚きっぷりに笑いを堪えるのに必死だった。「俺も日本に行きたいよ。インシャラー。HAHAHA」
その後、ベルベル人の望遠鏡を見せてくれた。とても古いものなのか、ただオンボロなだけなのかは分からないが。アブドゥルはこれを覗いて「オー日本が見えるよ、HAHAHA!」と笑う。もの凄い勢いで笑う。全然面白くなかったが、大人の対応として笑ってあげた。そしてその後はやはりみやげ物を見せて商売の話。やっぱりな・・・。金が無いから買えない、と言って逃げるように去った。

夕食をあまり繁華では無い中心部のレストランで採った。オレンジジュースはぬるかったが、注文してから絞ってくれるので美味しい。ただ、ケフカ(羊)のハンバーガーは駄目だった。カバブのように香辛料で味付けしているわけでは無いから、とても臭い。俺は実は羊が苦手だったんだな。モロカン・サラダは美味しかったが。
ホテルへ戻って、ちょっとだけ日記を書いて就寝。よく眠れるのは、体調が良くなってきた証だろうか。

2005年05月11日

タイB

てきとーに起きて、ホテルの朝食。ここに何人か日本人がいたが一人で来ていたのはおれだけのようだった。
同じホテルに2泊ではあるが、部屋は変えないといけないらしい。ってなわけで荷物をまとめてチェックアウトし、フロントで鍵を交換してもらって14階の部屋に移った。さすがにこれだけ上に来ると海の眺めも素晴らしい。窓からの景色を眺めてるだけでも1日ここにいる価値がある。
そんなわけで早速昼寝。起きてメシ食って、昨日散々苦労したリコンファームを完了させて、また部屋に戻ってきた。こんなスローな旅もまた良し。
この日から3夜連続でパタヤーインターナショナルミュジックフェスティバルが開かれた。日本にいるときにこの情報は知っていたから、1日くらい見てみたいという意味もあってパタヤーに2泊したのだ。夜になるとビーチ沿いのメインストリートが歩行者天国になって出店が並び、街全体がお祭り気分だった。人の波を早足でかきわけて5分ほど歩いてミュージックフェスティバルの1つの会場に着いた。べつに入る気はなかったがなんとなく気分を味わって元来た道を引き返した。噂によるとオレンジレンジなんかも来てたらしい。

2005年05月12日

モロッコ・イベリア(10)

8時過ぎに起床し、朝食。例によってオレンジジュースが美味い。
シャワーを浴び、日記を書き、出発の準備をして昼にチェックアウト。オレンジジュースのおかげか、体調もかなり良くなった。バスターミナルに行く途中、スーパーマルシェに寄って、水と飲むヨーグルトを購入。

マハミド行の切符(57DH)を購入。まだ時間があるので近くのレストラン(というか食堂?)でコーラを飲む。テレビのニュースでは9.11事件のことを放送していた。そうか、明日は9月11日。この日をイスラムの国で迎えるというのは結構複雑な心境だ。
1時10分くらいにターミナルへ戻ると、もうすぐバスが来ると言うので待つことに。やってきたバスは前回と同じ会社なので同じような形だが、よりボロくなっている。上には上が居たか。バスに乗り込むと、アブドゥル(本当にこの名前は多い)と名乗る男が積極的に話しかけてくるので、多少警戒しつつも話をする。顔では無く、雰囲気がどことなくセガールに似ている気がする。日本語をほんの少しだけ知っているようで、「アツゥイ、ツカレタ」などと言ってくる。バスは2時過ぎに出発。

バスの中は確かに「アツゥイ」。何せ通路にも人が居る。このバスが混むという噂は本当で、早めに来ておいて大正解だった。
エアコンなんてあるわけ無いし、狭くてひどく汚い。でもモロッコの生の風景を見られるというのはとても興味深い。飛び交うアラビア語、イスラム的な音楽、外に広がる景色・・・これでわくわくしないはずが無い。
アブドゥルがホテルは予約したかと聞いてくる。してない、と言うと、じゃあ俺のホテルを予約してやろうと言ってくるのでちょっと警戒したが、ホテルの名前を聞くと目星を付けていたところだったので、頼むことにした。考えてみれば、マハミドにはホテルが2件しか無いのだった。マハミドに着くのは夜になるだろうし、正直有難い申し出ではある。
しかしこのアブドゥル、意外と多彩な日本語を操る。「アツゥイ、ツカレタ、オンボロ・バス、カラテ、センズリ」・・・誰だ、センズリなんて教えたのは。俺の前に座っている青年に向かって「こいつはこれで"センズリ"している」などと言って新聞に載っている女の写真を見せてくる。アホだ。しょっちゅう握手を求めてくるし、胡散臭さはかなりのものだ。不安だ。途中から何故か席替えをし、件の青年がとなりに来た。ある程度は英語を話せるらしく、下手くそ同士で色々と話をした。こっちはアブドゥルと違って胡散臭さは微塵も無く、短い間ではあったが、お菓子を上げたり貰ったりもして、結構仲良くなれたような気がする。

バスが停止した。何かな、と思って外を見ると、なんと橋が壊れていて進めない。舗装されていない脇道を通って行くようだが、何故か3分の1くらいの乗客が降りて橋の下を歩いて渡り始めた。俺も降りてみようかと思ったが、置いてかれる可能性を考えてやめた。脇道をゆっくり通り終えたとほぼ同時に、降りた客も無事バスに戻ってきた。アヴドゥルも降りた客の1人で、戻ってきてから俺に「歩けば良かったじゃないか。死ぬかもしれないぞ、インシャラー(モロッコ人は本当にインシャラーという言葉が好きだ)」といって笑った。冗談だとは思うが、このヤクザな脇道を通ったあとではあまり笑えなかった・・・。

何事も無かったかのようにバスは走り、だんだん外は暗くなってきた(というかバスの中も)。本当に小さな集落でもバスは止まり、1人や2人の客を乗せたり降ろしたり。ここがCTMと大きく異なるところで、民営バスの便利でもあり不便でもあるところだ。ただ時間に余裕があるのなら、こっちのほうが面白いことは間違いない。快適さとは程遠いが。
アブドゥルが、マハミドまでランドローバーで連れて行ってやると行ってきた。彼はザゴラ付近で降りるのだろう。タダというのが不安ではあったが、道も分からないので乗せてもらうことに。名残惜しくはあったが青年に別れを告げ、バスを降りる(彼も心なしか寂しそうだった)。俺の他にもフランス人の2人組が3組、計6人居た。また俺だけ1人だ。
照明の無い真っ暗な道をランドローバーはものすごいスピードで走る。月がとても幻想的に光っていて、思えば遠くに来たもんだとしみじみ。バスの中でフランス人と少し会話をするが、英語力の無さからあまり弾まず。やれやれ。
そしてついに、マハミド着。地面はもうサラサラの砂だった。サハラ砂漠はすぐそこだ。とりあえず荷物を置いて、夕食。フランス人2人と同じテーブルになった。日本語で食べ始めるとき何か言うのか、と聞いてきたので教えてあげて、「イタダキ・マス」。色々話をするが、もう少し英語を話せたらなあ・・・と思わずにはいられない。フランス人のくせにかなり英語が上手くて驚いた。

食後アブドゥルに呼ばれ、行ってみるとツアーの売り込み。本当はマハミドの近くをうろうろするだけでいいかなと思っていたが、らくだで砂漠に行って一泊という簡単なツアーが350DH。値段も悪くないし、何よりテントで一泊というプランに惹かれて、行ってみることにした。そろそろアブドゥルを信用しても良いんじゃないかと思えてきたし。冷静に考えてみれば、彼にはかなり助けられている。
色々手続きをしたあと、ホテルの部屋へ。まぁ、50DHという「値段の割りには」悪くない。新築の匂いがするが、外見は全く新しくない。疲れたしもう寝ようと思ったらドアを叩く音がするので、開けてみるとさっきのフランス人。ミントティーを飲まないか、と言ってきたが、あまりに疲れていたので丁重に断った。今思うと付き合うべきだったと思うが、かなり疲れていたのは事実だ。ベッドに横になると、すぐに寝てしまった。

2005年05月16日

タイC

パッポン通りの近く

この日もてきとーに起きて朝食を食べてチェックアウト。ホテルを出ようとしたら雨が降っていた。でも熱帯の雨は待ってれば止むっていうからしばし待っていた。そしたら見事に雨はあがり、バンコク行きバスターミナルに向かって歩き出した。歩いて行くのは不可能な距離なのはわかっていたから途中でソンテウに乗った。しかしどこで降りたらいいかわからない。地図にもバスターミナルの正確な場所は描いてないし、行きはタダの車に乗ってきたから何の躊躇もなかった。まぁどうにかなるだろうと身を任せていると、ある信号で止まったとき、運転手が降りろと言ってきた。全く意味不明な場所の中央分離帯に降ろされた。まぁぼーっとしてても仕方ないからこっちだと思う方向に歩いてみた。くそ暑い中10分ほど歩いたらちゃんとバスターミナルに着いた。いやぁどうにかなるもんだ。
バンコクまで3時間ほどバスに乗った。地球で見つけたナーナー近くのホテルにアタックして以後3泊分をそこにお願いした。1泊2800円くらい。しかし、タイのホテルではどこでも蟻がでるのだろうか。まぁ超微小な蟻だから害はないだろうけど、先進国では見られない。
ホテルの近くに本格的なクレープ屋があった。メシよりスイーツを愛するおれとしてはぜひとも行っておきたい店だった。またいつものように地球に迷わされながらどうにか店をみつけて入ってみた。クレープ屋というよりはレストランって雰囲気だった。メニューを見て、マンゴー・ココナッツアイス・マンゴーソースの3つからなるクレープを頼んでみた。これがまたうまーい。ココナッツアイスとマンゴーソースが絶妙。恐らくタイで食べた中で一番おいしいものだった。
食べ終えて、近くのタイムズスクエアの中のネットカフェへ。1分1バーツ。安くはないね。そしてまた近くのマッサージ屋へ行こうとしたら日本人が5、6人なだれ込むのを見てやめた。
さて、することがなくなった。1日目に会ったおっちゃんがパッポン通りを勧めてたのを思い出し、BTSに乗ってサラデーンに行った。さすがにパッポン通りは怪しげな店が多かった。客引きもいた。まだ17時前だったが、これが暗くなるとどうなるのかは何となく想像がつく。しかし、後でタイ在住日本人に聞いたところによるとそんなに危なくはないようだ。
1日目に会ったおっちゃんがお勧めのマッサージ屋「有馬温泉」に行ってみた。いかにも日本人向けだが、土曜日ってこともあってかお父さんだらけ。20分待ちと言われたのであっさり出てきた。
おっちゃんはパッポン通りにほど近いタニヤ通りにある「桃太郎ラーメン」も勧めてた。あそこのラーメンがうまいんだよ〜って。おっちゃん曰く、有馬温泉でマッサージされた後に桃太郎ラーメンを食べるのが最高らしい。ってなわけであまりラーメンは好きではないが行ってみた。メニューはいろいろ。メニューを見た瞬間、うまいという期待は捨てたが、味もその通りふつうだった。
おっちゃんが夢をくれたことに感謝しながら、この日はホテルに帰った。

2005年05月25日

The Silk Road(1)-Departure

We were going to get together to go to Shanghai. So on August 12, 2002, I left for Kobe, where a ship waited for us to go to China.
I took part in the tour for college students only, sponsored by "Honryu China". I paid probably $2200 for three weeks, so it was a cheap tour. This was the first time I went on a trip since I started college, and I was really looking forward to it. But two months prior the departure day, I started loosing interest and I eventually hesitated going. The day before departure, I thought about aborting, and decided to "oversleeping" through my allram clock. But at the last minute I changed my mind and anyway. So I went to buy a suitcase.
After I arrived at Itami Airport, I called my friend "Some"(who also took part in this tour) and we met at Osaka station. We then went to Sannomiya and strolled and talked while eating okonomiyaki.
On August 13 I was at the port in time but I couldn't find the group. I was very confused, so I decided to which I knew was with the group. I then realized that I got the wrong floor. I went to the right place and I noticed that there were many people which I thought. It sucked. I anticipated about thirty members maximum but there were 64 people waiting. I was already sick of so many people.
All of us were divided into six groups, and I was in the first one named "Uighur." The tour leader was the captain of our group.
We passed the dreary departure examination and got on Shin-Ganjin-Gou.

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